20-1.矢島祥子医師の志と実践を忘れさせてはならない


鈴木守 郡馬大学名誉教授(元学長)

 2023年11月4日の無教会全国集会において大阪の西成地区を中心に矢島祥子医師により路上生活者、ホームレスの人々に対して進められた保健医療活動と、同医師の突然の失踪および不審死につき話をさせていただきました。全体スケジュールが大変タイトであるところに時間をいただきましたことお礼申しあげます。
 同日配布させていただきましたテキストが本紙にも掲載されるとのことですので、重複をできるだけ避けてこの事案につき私達は何を考え、行動すべきかにつき問題提起させて頂きたいと思います。
 テキストに記しましたように矢島祥子さんは群馬県高崎市で父母共に医師という家庭に、明るく元気に育ち1993年4月に群馬大学医学部に入学し1999年3月卒業後、専門医としての研修を受けました。学生の頃から横浜の寿町などで厳しい肉体労働に従事した後いわゆるホームレスとなって野外生活を余儀なくされている人たちの保健医療活動に参加していた祥子医師は内科専門医の資格取得後大阪の西成区釜ヶ崎で医療活動を精力的にまた文字通り献身的に進めました。祥子医師がどのような信条にどのような仕事をすすめたかについてはテキストをお読みいただきたいと思います。
 祥子医師にとって釜ヶ崎で生活困窮者あるいは路上生活者となっている人々は、憐みの対象ではなく、「友」でありました。そうした人々に対する医療の経費は生活保護制度などの適用の拡張などが進められる反面、生活保護者への医療過剰状態に見られるような「貧困ビジネス」が存在することも祥子医師の知るところとなりました。このことに気づいた祥子医師の思いと決意はテキストに記してあります。その決意が何者かにとって不都合な状況を招くことになったのでしょうか、祥子医師は行方不明になる数日前から身近な人達に身辺に不穏な動きがあることを漏らしていたようです。
 祥子医師は2009年11月13日に行方不明となり16日未明に木津川・千本松渡舟場で遺体となって川に浮かんでいる状態で発見されました。遺体の状況から見て祥子医師は殺害された可能性が極めて高いと思われますが、警察は「事件と事故の両面から捜査している」とのコメントを繰り返しています。さらに祥子医師のご両親の所には差出人不明の手紙が届いています。「釜ヶ崎で路上生活者の医療活動をしていた女医がいたなどという事は、こちらでは誰も聞いたことがない」「ここはお嬢さん医師が来るところではない、私達は私達でりっぱにやっている」などの内容であります。医療関係者も今は口を閉ざして矢島祥子医師について語ろうとしません。何らかの大きな闇の力が矢島祥子医師の存在と実践を人々の記憶の中から消し去ろうとしている気配が感じられます。

 このような状況の中で私達、否「私」は何を考え、何を実践していけばよいのか。

 アフリカのスーダンの無医村を中心に医療活動を進めている川原尚之医師の力で高校留学生として日本で勉強をしていたゼイン君は今スーダンの内戦を逃れて首都カルツームから180km離れた村に避難しています。一日3食を取ることのできない絶望的な状況の中からゼイン君が日本にメッセージを送ってくれました。「日本で生活して学んだ言葉がある。それは“これから”という言葉だ。日本人はどんな状況でもこれからどうしたらいいのか考えて前に進んでいく。自分もそういった日本人の精神をスーダンで広げて頑張っていきたい。」

 釜ヶ崎で生活困窮者あるいは路上生活者となっている人々に「友」として医療をすすめてきて34歳で天国に召された矢島祥子医師の志と実践が何者かによって私達の記憶から消し去られようとしている今、ゼインさんの支えである日本語 “これから” をどのように志向していったらよいのか。

 2023年3月31日に高崎市総合福祉センターのホールで「さっちゃん、おかえりなさい」という会が開催され、多くの人達が参加しました。基督教会主催の会ではありませんでしたが、祈りがなされ讃美歌312番、338番など参加者が歌いました。その中で詩人「もず唱平」さん作詞、祥子さんの兄ミュージシャンの矢島敏さん作曲「さっちゃんの聴診器」という歌が歌手高橋樺子さんによって歌われ全員の合唱となりました。歌詞の最初の部分を紹介いたします。

さっちゃんの聴診器

もっと生きたかったこの町に
もっと生きたかった 誰かのために

鳶職(とび)で鳴らした権爺の
八十路の胸に聴診器
聴こえて来たのは故郷の
祭囃子と笛太鼓

親に背いたフーテンの
十九の背(せな)に聴診器
我慢の竜虎がべそ掻いて
風邪を拗らせすねていた

もっと生きたかったこの町に
もっと生きたかった 誰かのために

 会には「さっちゃんの会」と記した半纏を着て見事な踊りと声を披露してくれた大阪からの参加者の出演もあり会場を盛り上げてくれました。

 この会に出席して、祥子さんのお兄さん敏さんがロックバンド(私の全く不案内な世界)のプロの奏者、ミュージシャンであることを知りました。そのお兄さんが沖縄の三線を演奏して、さっちゃんの聴診器を歌いました。会場の参加者が皆でその歌をうたいました。また自然発生的に「さっちゃんの会」が組織され、はっぴまでが作られて、民謡的な歌と踊りが広まっていることも知りました。このような流れは闇の力も止めることはできません。歴史的に様々な圧迫、虐げを独自のユーモアを使ってうまく交わしてきた「なにわ」の人々の中に受け継がれてきた“これから”の知恵を見た思いがいたしました。こうした人々の知恵を見ながら私も“これから”を神様に祈りつつ志向していきたいと思っています。